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by torakog

臨死体験から見る『死後の可能性』


聖トマス大学 寄付公開講座 「悲嘆」について学ぶ ~愛する人をなくすということ~


第5期が始まりました。昨年の秋の第三期から通っています。感想をほとんどblogに揚げてこなかったので、自分メモとして、記録を残そうと思います。

今回の講師はカール・ベッカー氏。メッチャ日本語の上手で「エエ声♪」なアメリカ人。京都大学こころの未来研究センターの教授。でもって、タイトルが演題。今までの講義が大まかに言って「悲嘆とは何ぞや」とか「私の喪失体験」が演題で、泣いたり笑ったりできたのに、今回いきなり「臨死体験」とか「死後」とか。一瞬、オカルト?と誤解しそう。それか立花隆さんの本とか。

でも講義の内容はちゃんとしたものでした。





昔の日本では死が身近にあって、それはそれで辛いもので、医学の進歩の原動力とかになったと思うんだけど。今の日本では、死どころか老人や病人すら身近にいない社会になっている。子どもにとっては、死はゲームの中のもの。

おかげで、日本では死は怖いものになってしまった。だって、経験してないもの、分からないものは怖いでしょ。それって、がんとかに対しても同じだよね~

ここでエピソードが。生まれたばかりの赤子をなくした母親が、救いを求めてその子を仏陀の足元に置く。仏陀が「死んだ人を出した事のない家から香辛料を借りてきなさい」と母親に言う。
母親は村中の家を訪ね歩いくが、どこも親や子を失った家ばかりで、香辛料が手に入らない。
そのとき、母親は気がついた。
自分ほど辛い人間は居ない、と思っていたけど、村中のどの家も家族の誰かを失って、辛い思いをしているんだ。

なるほど。「自分だけが」じゃないんだ、それが分かった時、母親の悲嘆は劇的に変化するんだよね。

それからしばらくは、死の向こう側から戻ってきた話。キリストの復活とか日本のもがりの間に息を吹き返した人の話とか。う~ん、理解しづらかった。こういう歴史が死に対する昔の人の考えを形成した事はわかるんだけど。医学が進んでいない時代の話だなあ。

あと、対外離脱(体外離脱の事だと思うけど、資料がこの漢字だったのでそのまま使用)や臨死体験研究についても、否定はしないけど、欧米で真剣に研究されてるようだけど(驚いた事に。Lancetに載ってるんだよね)
なんか、悲嘆とかグリーフケアの実践とそぐわないように思うんだけどなあ。スピリチュアルケアの必要性から、こういうことを否定はしないけど、私はなかなか受け入れられないよなあ。

これらの考えが、遺族の悲嘆への対処、遺族の気持ちを汲み取る医療や医療者の燃え尽きに対処する大きな哲学になることは間違いないと思う。

それは、なぜそんな死に方をしたんだろう、という答えのない問いに、もっと大きな哲学的な答えとなる可能性を秘めている。それは、
1:「私だけが辛い」といった、自己中心な遺族の人生を立ち止まらせるもの、や
2:早く忘れたい、社会復帰したいと薬やカウンセリングのチカラを借りること(カウンセリングで忘れられるというのがよく分からないけど、その辺りの説明なかったなあ、第一次世界大戦後の欧州の雰囲気って「悲嘆=病気=早く治すもの」だったのかなあ)
ではなく
3:Continuning Bondsという考え方で、死者との関係を再構築し、前向きに残りの人生を歩む  (このときのたとえの「スターウォーズのオビワンがダースベイダーに切られる事で体が解放される」という話が、えらく突拍子が無くて面白かった。私観てないんだけど、本当にそうなの??) 

日本にはその文化、風土に合った対応、お墓参りや仏壇といった死者を弔い、生活の一部をして共に生きる風習があって。それって今ほとんどなくなってるけど、やっぱり必要なんだなあと思った。
実家の弟の祭壇、もうちょっとちゃんとしなくちゃなあ。両親も少しは落ち着いてきたし、なんとかしてくれないかなあ。
by torakog | 2009-10-03 00:01 | GriefCare